民族スポーツとだんじり祭り

このページは民族スポーツでもあるだんじり祭りについて考えるページです。これは、私が書いた卒業論文の補足や訂正、また新たに気づいた点などを書いていこうと思います。

※卒業論文(平成11年度執筆)ただいま公開中です。テーマは「岸和田だんじり祭りの現状と問題点−地域の祭からイベントへ−」です。これは、MSワード2000、1600字×11ページです。もし、一度見てみたいという方がおられましたらメールにて送ります。
以前に論文希望のメールを送ったのに返事がこなかったというかたいらっしゃると思います。PCの故障で一時期使用不可能となってました。誠にもうしわけございませんでした。
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民族スポーツとだんじり祭りの関係とは
 元来、スポーツは19世紀のイギリスの人類学者タイラーが提唱した「残存概念」にもとづく「祭礼からの発生説」から、スポーツは信仰や習慣その他の独特の文化といったその共同体のアイデンティティーを確認する上で重要なことがらが、すべて儀式化して行われるようになってきたことから生じてきたともいわれている。この説に従うならば共同生活を維持していく上で重要な独特の社会的意味や機能を持っている岸和田だんじり祭りは立派な民族スポーツと言えるのである。   

だんじり祭りの歴史
注意:以下の内容は「岸和田警察署史」(1981年)を参考に書いています。ここでは「だんぢり」ではなく、すべて「だんじり」表記にしております。

1.だんじりの語源(完全版)
 だんじりとは、「祭礼の曳物の1つで、車上に山・人物・草木・禽獣などを飾り立てて囃子を行う」と広辞苑にある。また「だんじりに相当する語句を挙げると「壇尻」「楽車」「地車」「山車」「段尻」「壇輾」などがある。この「だんじり」の語源については多くのものがあり、まだこれという定説はない。以下にその幾つかをみていく。 

・「台摺り(だいずり)説」
  「祭りに出し台を引摺る」ことから、だいずりがいつのまにかなまってだんじりとなったとする。
 
・「壇の尻説」
  祭壇の最も聖域となる高い奥を「尻」といい、この尻を曳行すること、すなわち「壇の尻」を曳くことからだんのしりがいつの日からか「だんじり」と変化していった。
 
・仇敵「台尻討った」説
  後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王が信州大河原で自害せられたのを、その子良王親王が、家臣に命じて永亨8年(1435年)6月14日尾張津島天王の祭礼で、仇敵「台尻大隅守」を討つべく人ごみに身を潜め、時を待ってついに台尻氏を討つことに成功した。その時皆々が「台尻討った」と喜びはやした言葉が同社の祭礼に残り、その台尻がなまってだんじりとなったものという。
 
・「台躙(だいにじり)説」
  御神幸の形態においては、「山」や「鉾」は悪霊を躙るように進んで行き、台がじりじりとはうように歩くことから「台にじり」が、いつのころからかだんじりに変化したという。
 
・「山を飾り後曳き説」
  山に対する古くからの自然信仰があった人々は土を盛った小高い山のことを「壇」といい、山を崇めて形どった依代(よりしろ)の祭壇をまず飾り、拝礼し、もてなした。後、「尻」に海や川にずり出して神座の移動をし、神送りをしたことから「壇尻」といわれたという。
 
・「マタギ語説」
  青森や秋田の狩人集団では、「兎」のことをだんじりということからだんじりを兎と見て曳き狩猟が豊かにと祈願する祭りが始められ全国に広まったという。
 
・「壇修羅説」
  だんじりは、古来修羅が原点であり、大石を霊あるものとして、この石などの自然物をも壇をして古墳の石棺を曳行した。修羅とは、すなわち「そり」であり「だん修羅」が歴史を経てだんじりと変化したのだという。

2.だんじりのルーツ

 だんじりは、どのようなことから起きたのか確かな資料はないが様々な説がある。それを大きく分けると3つに分けることができる。以下に書き出してみると。

全国すべての祭りのルーツ

・「京都祇園祭(山・鉾)説」
  九州の「山笠」も、関西の「だんじり」も、東京の「神輿」も、青森の「ねぶた」も、いずれも京都の祇園祭の「山」か「鉾」が変化したものだとする。それが、「山車」「曳山」「台楽」「屋台」「ふとん太鼓」「矢倉太鼓」「枕太鼓」と型がそれぞれの土地で変化し、曳行方法も変わったと考えられる。一般的に、貞観11年(869年)に始まったといわれる京都の祇園祭が全国の「山」「鉾」の原点とされている。

だんじりのルーツ 

・「獲物曳行説」
  日本民族がまだ石器時代のころ、大きな獲物を矢尻で倒しらたら、集落の老若男女が、綱を曳いて村まで運んだ。この後、柴や木、竹に獲物をくくりそれを多くの者が曳き、大きな声を出し、喜びを表現した。村に帰ると獲物を中心として、踊り唄った。だんじりは、五穀豊穣の獲物曳行が変化していったものとする。
 
・「戦車説」
  だんじりの起源は、トロイ戦争における木馬や、ヘレニズム文化の時代の戦車が原点となり、インド、中国大陸、朝鮮を経て日本に入った.それが戦国時代に入り荷車(コロ付)を人や馬により武具や武器の運搬にと移り、勝利のときは鳴り物入りで曳行した。
 
・「誉田神社花車説」
  藤井寺市にある誉田八幡宮の「車楽」を日本最古のだんじりとする「摂陽奇観」によれば、「河内国古都市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にでる。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞を給うをまねびけるとぞ。この車楽の屋形には、多く綿繍をまとわず、児どももようの布かたびらを着て、せいのふという舞を奏、笛の音、殊勝なり、作り花かざりて古雅なる体、およそ上代の遺風なるべし。これだんじり(車楽)の始まり」とある。
 
・「傀儡子船説」(かいらいしせん)
  宇佐八幡縁起によると奈良の大仏を建立する年(743年)に宇佐から八幡神を迎えるため、飾りをつけた神輿(御神体)を傀儡子船に乗せて海を渡ったとある。このとき、船でクグツの舞を吉凶を占う相撲が船上で演じられたという。カイライシとは木偶ともいうあやつり人形のことでもあり、淡路や徳島のくぐつ船にも由来するといわれ、今は船だんじりとしてその姿を残している。

岸和田だんじりのルーツ

・「修羅説」
  修羅というのは、古代の運搬具である。昭和53年の春、藤井寺仲津媛陵古墳の倍塚である三ツ塚古墳に大小二つの修羅が発見された。その古代修羅と岸和田の地車の構造機能、曳行方法が非常によく似ている。修羅は石をつみ多くの人で曳行する。修羅にある計15個のホゾ穴は綱を通して引っ張ったのであり梃子穴もある。車は丸太を輪切りとして使用されたが、それが後に「コロ」に変化し、やがて車となる。

この修羅説の説明は、私が書いた論文のほうに詳しく書いています。
これらは、論文の補足として見ていただければより分かりやすいと思います。