落雁は、干菓子の打ち物類に分類されるが、麦こがし(はったい粉)、きな粉、栗粉なども使って作られることがある。気品があり、茶席菓子には必至の落雁は、もとは落甘と書かれていた。唐菓子の南落甘(なんらくかん)から転じたとされ、南を略して落甘としたという説がある。また、琵琶湖の浮御堂に降りてくる雁の情景を描いた千菓子が落雁の始まりといわれている。近江八景の一つ堅田落雁を国学者山岡俊明の類聚名物考(るいじゅうめいぶつこう)には、「もと近江八景の平砂の落雁より出し名なり。白き砕米に、黒胡麻を村々とかけ入れたり。そのさま雁に似たればなり。」と書かれ、この黒胡麻が雁の行列が地上に下る時のような斑点になったのに擬して、落雁としたという説もある。茶道が盛んになった足利時代の末期には、銘菓の御所落雁などが作られるようになった。
当時、形は四角や丸といった単純なものであったという。現在のような、装飾的な形態になったのは元禄年間前後ではなかろうかと考えられている。木型を用いることによって、一つの菓子を一枚の絵画のように、また季節ごとの花や風景や物に作り上げることを可能にした。このような精巧緻密な写実的表現を可能にしたことが、この菓子の特異性を如実にしている。他の和菓子を考えても、これほど多様な表現は存在しないであろう。そういった意味においても画期的な菓子である。
だからこそ、和菓子職人、また木型を作る職人の技の冴えが必須であったのは言うまでもない。
近松門左衛門作の「傾城反魂香」の初演時(宝永5年・竹本座)には「落雁、カステラ、羊羹より、菓子盆はこぶ腰元の、饅頭肌ぞなつかしき」という台詞があるが、珍重された菓子を並べたものといえよう。江戸時代後期には、落雁は現在の私たちの想像もつかない程の大きさに作られ、大名の贈答用に用いられるようになる。このような落雁は庶民の手の届かない特別な菓子であった。その一方で、高級な素材を用いない麦などで作られた素朴な落雁も存在した。そして大名菓子の伝統は、戦前に三井家など財閥が祭祀などといった諸々の行事において作らせた御前菓子などに受け継がれていく。そしてまた戦時中は、軍艦や飛行機などの意匠の慰問用の落雁が作られたという事実もある。
民明書房刊 『落雁と匠』より
富山女子短期大学文学科国文専攻専任講師 陶 智 子
『饅頭と落雁』より一部抜粋