1938(昭和13)年、悲願の全国制覇を遂げたときの遊撃手。「ずっしりと重い優勝旗の感触がまだ、体に残っている」。選手として、監督として、戦前、戦後の平安(京都)を引っ張った。華やかな野球人生だった。夏の甲子園に3回出場。立命大を途中退学し、プロ入りもした。が、戦禍が運命を変える。応召。45(昭和20)年3月、南太平洋で右腕を失った。
終戦。京都へ戻ったが野球への情熱は捨てきれなかった。母校に請われる。義手にボールを乗せ、左手1本でノックした。「外野ノックは難しかったが、球を高めに打つことで何とか飛ぶようになった」。51(昭和26)年の33回大会で再び頂点に。
97(平成9)年の79回大会。川口(オリックス)を擁し準優勝した夏、スタンドには必勝うちわを振る姿があった。
終戦から52年。「手があればもっと野球ができた。今の球児は好きなことに打ち込める。それだけでも感謝のこころを忘れないで欲しい」
2001(平成13)年8月14日 朝日新聞夕刊所載
数年前に奥様を亡くされて以来ご無沙汰だが、私が教職にある頃はよくご一緒し、多くの教訓をいただいた。奥様は西村先生のことを「監督、監督」とお呼びしてずいぶんと尊敬しておられた。
今どうされておるか。お元気でおられることを望むや切である。(正)
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