兄弟子 神戸光雄のこと |
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私には13歳上の兄弟子、神戸(旧姓吉岡)光雄がいる。30年前の昭和51年7月9日に50歳の若さで急逝したので、正確には兄弟子がいたということになる。 昭和42年8月、当時の文部省からヨーロッパ7ヶ国教育視察団員に選ばれ、63名の先生方とともに21日間の欧州見聞の旅に出た。帰ってから「ヨーロッパ見聞の旅路」を出版した。 その本の『あとがき』に彼の略歴・性格・信条がよく表れているので、抜き書きして紹介します。 |
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《ヨーロッパ見聞の旅路 あとがき》 私は大分県臼杵市に生まれました。6歳の時に母を亡くして、9歳の時、同県佐賀関町、正念寺住職 丹羽貫誠師(勲五等 藍綬褒章 西日本文化賞を受章、本年2月9日死去)の弟子として、僧籍に身をおくこととなりました。 私をここまでお育てを頂いたのは、勿論師匠のおかげであることは言うまでもありません。 佐賀関尋常高等小学校卒業後、大分中学を受けて失敗、単身大阪に上り、大阪浄土教校と大阪府立高津第二中学に学びました。 昭和20年3月13日の空襲で丸裸になり、焼夷弾1個をみやげに帰郷、同年4月21日、山口県櫛ケ浜暁第1672舞台に船舶兵として入営、同年11月25日除隊、その後しばらく師匠のもとで勉強していました。 その間、21年11月知恩院で加行を受けて浄土宗教師の資格、更に22年11月第8回信行道場を修了して布教師の資格も頂きました。また、日曜学校なども経営して子供たちの指導しあたったり、また講演、人形劇、童話、幻灯、ペープサートなどを引っ提げて全国行脚も行ないました。 昭和23年4月仏教専門学校に入学、しばらく、八日市建部、弘誓寺に厄介になっておりました。しかし、当時は京都まで通うのにかなりの時間がかかり、朝暗いうちに出て、暗くならなければ帰れない。考えてみると時間の無駄が多い。何かよい方法はないものかと案じていました所、京都嵯峨釈迦堂貫主 塚本善隆博士(現京都国立博物館長)が、私のうちに来ないか、ということで、心配していた折、早速先生にお願いして、先生のもとで勉強させて頂くご縁を結ばせてもらいました。 26年3月に仏教専門学校を卒業し、四囲の状勢からどうしても大学まで卒えたいと思ったが、いくら考えても学費が続かない。当時師匠より授業料だけは出して頂いても、それ以上の無理は言えない、何故ならば、8人の子弟を養育している師匠に、これ以上の無理の言えるはずがない。しかし、人形劇や童話などの少しのアルバイトでは、どう操作しても参考書を買うだけの余裕がない。一時は大学進学を断念しようとまで思ったくらいであったが、またしても塚本博士をはじめ、諸先生のお話により、当時のハワイ開教区長、宮本文哲師(現在、福岡県善導寺法主)より奨学資金として年間100ドル、2年間200ドルをうけることになり、仏教大学3年に編入学しました。 しかし、諸物価高と、交通費などで研究に必要な図書を買いたいがその余裕がない。京都駅でキャンデーを売ったり、鉛筆や石けん、チューインガムなどを売りに歩いたり、また、エキストラ、人形劇、家庭教師、更に涙をかくして135円の保健所のドブさらえをやったり、選挙前の人名簿の整理、選挙運動にいたっては、参議院選より、村会議員の補欠選挙まで、また、その間、京都少年保護学生連盟常任委員として、少年の補導にも当たっていました。 28年3月、諸先輩方々のおかげで無事に仏教大学を卒業、後しばらく南禅僧堂にも学びました。 そして、同年7月、伊藤宏天師(現在、徳川菩提所三河大樹寺貫主)と稲岡法純師のお世話により、滋賀県に籍をおく身となりました。 同年9月16日、八日市聖徳中学校に奉職することになりました。奉職後しばらくして、ハワイ宮本文哲師より、2年程ハワイに勉強にきなさい、と途中の船賃、小遣いまで送って頂いたが、折角奉職して間もないこととて、ハワイ勉学を断念して現在に至っております。 (中略) 私は仏教大学卒業まで、波高き人生に、何度打ちのめされそうになったことか、しかし、その時先述のみなさま方の温かい心の支えと、それにも増して、亡き師匠の力強い指導のおかげで、それをのり越えさせて頂いたわけであります。現在師匠が達者でいてくれたら、どれだけ喜んでくれたことでしょう。その意味において本書は真っ先に師匠に捧げるものであります。 このつたない見聞記を読んで頂いたみな様方、私の微意のある所をおくみとり願いまして、今後ともご指導とご鞭撻を賜りますよう、伏してお願い致す次第であります。 |
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佐賀関正念寺での光雄兄との生活は短かったが、本当にお世話になった。 「あとがき」に書いてあるように、京都時代は経済的に苦しかった。にもかかわらず、夏休み、冬休みに京都から帰郷する度ごとに、寺の娘たちや我々弟弟子たちに必ず土産を買ってくれたものである。 昭和36〜38年に受けた教師養成講座や伝宗伝戒道場には多忙中にもかかわらず、八日市からわざわざ見舞いにきてくれた。 中でも伝宗伝戒道場の満行の日、自坊の地福寺で心をこめてお祝いをしてくれ、「おめでとう。これで一人前だ。しばらくは教職できばり、最後は宗門のために尽くそう」と言っていただいた。 私が岸和田に来てからも何かあると呼んでくれ、陰に陽にいろいろと心配りをしてくれた。阿弥陀寺にも、十夜のお説教に二度来てくれた。 昭和51年5月、正念寺の母がしばらくこちらへ来ていた。母が帰る際、光雄兄と二人で大阪空港まで見送った。 見送った後、一杯やりながら「来年はお互い晋山式(住職を継ぐ式)や。時期が重なることがないように早めに連絡を取り合おう」と約束して別れた。 その2か月後に突然の訃報を聞くとは……。今も当時のことを思い出して涙があふれ、ワープロの字が見えなくなってくる。 光雄兄は亡くなったが、しかし私の心の中には今でも生き続けてくれている。自分の力ではどうにも出来ないことに遭遇した時、光雄兄の顔を思い浮かべて相談すると「どもない、心配するな。お前の信じたとおりにやれ。お前の後ろに俺と師匠がついている」と励ましてくれている。(正) |
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