遠藤周作のエッセイ3
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宗教の中に入って、いちばんひっかかりやすいのが、この優越感であるとも言えるのです。つまり、キリスト教ならキリスト教に入ると、他人に対して、あの人たちは仕方のない人だ、と思い込んだり、あるいは、自分はいつも正しいことをしているのだ、という気持ちになりやすいのです。当然、そこに優越感が起こります。これはやはり、他人の悲しみということがまったくわからないという点で、もっとも非キリスト教的な考え方だと思うのです。 『わたしのイエス』より |
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この年齢になると、なぜか「善魔」という二文字がしきりに頭にうかぶ。 善魔なおという言葉はもちろん字引にはない。がしかし、それに対応する悪魔という言葉はもちろんある。 私は悪をやることも実にムツかしいが、逆に善をやるのもかなりムツかしいと考えるようになった。私のような小人物には大悪をやるには努力と勇気がいるものだから、さいわい今日まで小悪はつみかさねても大悪に手を出し自分の人生を目茶苦茶しなくてすんだ。小心、臆病もやはり役に立ったわけである。 しかし逆に善いこととなると、これは意外と努力なしに感情だけでやれるものだ。しかし感情に突きうごかされて行った愛なり善なりは(正確にいうと自分では愛であり善いことだと思っている行為が)相手にどういう影響を与えているか考えないことが多い。 ひょっとするとこちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多いのである。向うにとっては有難迷惑な時だって多いのである。 それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足をしているのだ。 こういう人のことを善魔という。そしてかく言う私も自分がこの善魔であって他人を知らずに傷つけていた経験を過去にいくつでももっている。 その苦い体験を今かみしめてみると、やはり原因は二つある。ひとつは相手の心情に細かい思いをいたさなかったこと、もうひとつは自己満足のあまりに行き過ぎてしまったことである。 だから過ぎたるは及ばざるがごとし、とは名言である。 『生き上手 死に上手』より |
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