母(丹羽サカヱ)の手紙

 
 一九七一年も誠に新春らしく好天気にめぐまれて一同楽しいお正月を迎えて居ます
 昨年は次々大勢出掛け大変御迷わくおかけして申しわけなく思ってゐます、又其のたび事になにかとお心にかけて頂き誠に有りがたく感謝致します又年末にわ多沢お小使い頂き有り難とう御座ゐました 永い間御無沙汰したので何にから書いてよいやら合って話す様に行きません 昨年のお盆から多忙の一口につきおかげで二キロ太りました 四七キロ(現在)
 おきも今年の六月子宝に恵まれ出産の予定です 一月を最後に正念寺も新しく変る様子です 今年八月に来関の時は貴男方の居なれた正念寺とはなくなります
 おなごりにお正月にお来寺と思ひましたが思ふ様にゆきませんお許し下さい
 昨年十二月末日此の本が出ましたので一部私の記念又は先代の(カタミ)として送らせて頂きますおひまな時お目をとうして頂ければさいわいと存じます
 ご両親初め悦ちゃんに暮々もよろしくお傳え下さいませ
                 一九七一年一月二日
 野口正晧様
                     丹羽さかえ

 これは母から貰った生涯ただ一度だけの手紙です。敢えて原文のまま写しました。母からの手紙
 岸和田に来て五年目の時です。母は人に手紙を書くことはほとんどなかったようです。八日市常徳寺の光雄兄も「母ちゃんから手紙を貰った記憶はないなあ。ただ書いていた字は小さかったなあ」と言っていました。確かに小さな文字でしたためられています。
 三十四年振りに読み返してみると感慨新たなるものがあります。
 一九七一年(昭和46年)当時、母は六十四歳でした。「昨年は次々大勢出掛け・・・」は大阪万博に来たことを指しています。ソ連館に入った時、「迷子にならんように私をしっかりつかまえておきよ」と言っていた事や、その夜に私の畏友である奥野先生、門田先生と千亀利寿司で食事をし、奥野先生と腕を組みながら欄干橋・中央商店街から岸和田駅まで歩いたことが思い出されます。
 「おきも今年の六月子宝に恵まれ・・・」は母にとって三女の興(おき)のことです。
 生まれた匡貢(まさつぐ)君も、今や三十四歳で男児二人の父親になり、福祉の仕事に精出しています。
 「今年八月に来関の時は貴男の居なれた正念寺とはなくなります おなごりにお正月にお来寺とは思ひましたが思ふ様にゆきませんお許し下さい」と読み進むうちに、母の苦労と血縁の無い私を本当の子供のように手塩にかけて育ててくれた母の心情を想い、涙が溢れてきました。
 「昨年十二月末日此の本が・・・」は『佐賀関町史』のことです。
 育った昔の正念寺や勤めた佐賀関小学校・一尺屋小学校の写真があって、懐かしい思い出のページを開くことができました。
 「一部私の記念又は先代の(カタミ)として・・・」の先代とは、師匠の丹羽貫誠師のことです。二人の間にはいろいろなことがあったと思いますが、少なくとも私には、母は師匠によく仕え、師匠が僧侶としても社会福祉の面でも光り輝いていたその大半を担っていたと思えてなりません。

 私にとって『南無阿弥陀仏』とは母を通してのお念仏です。御本尊の前にいつも母がいて、私を見つめてくれています。
 やがてこの世を去り、懐かしい故郷で生母とともに、母に会えると信じています。(正)
 


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