遠藤周作氏が語るもの

 
 作家であり、文化勲章受章者でもある遠藤周作氏が亡くなって早10年になります。生前に書かれたいくつかのエッセイを紹介してみたいと思います。


 よく聞くはなしだが、日本の兵隊は息を引きとる時に「天皇陛下万歳」と言う代わりに「お母さん」と言いながら死んでいったという。
 私は実際、そういう場面を目撃しなかったから、それが本当かどうか知らない。しかしおそらく普通の日本の兵士が「お母さん」とつぶやいて息を引きとる心情になったことは当然のような気がする。
 もし本当の思想というものが自分の死とむきあった時、人間がつぶやく言葉にあらわれるとするならば、宗教を持たぬ大部分の日本兵士にとってこの「お母さん」という言葉は「ナムアミダブツ」や「アーメン」とつぶやいて息を引きとる仏教徒、基督教徒と同じ心情で口からほとばしった宗教的な言葉だったのである。言いかえれば彼らにとって母は神や仏の代わりにさえ、その瞬間になったにちがいないのだ。
 それは「母なるもの」が他の国民以上に日本人の心情にはぬきさしならぬ位置をしめているからであろう。意識すると否とにかかわらず、宗教のない日本人の心に母は人生観や人間観のうえで大きな影響を与えているのである。
 このことは日本の仏教を見ると更によくわかる。私は仏教のことは詳しくはないが、梅原猛氏の著作を読むたびに、日本的な仏教とは結局、母なる仏教だとつくづく思う。印度や中国の抽象難解の仏教は我々の国のなかで、ちょうど母親が子供をゆるしてくれるように、仏が人間をゆるしてくれる宗教に変わっていっている。
 善人が救われるなら、悪人は尚更のことであるという言葉は、言いかえれば、出来の悪い子に、恩愛をそそぐ日本の母の心情の移しかえである。
 この言葉から多くの日本人は仏のなかに、きびしい父のイメージよりは、やさしい母のイメージを見つけるにちがいない。
 宗教には二つある。「父なる宗教」と「母なる宗教」である。
 「父なる宗教」が旧約の神のように悪を責め、怒り裁くなら「母なる宗教」は悔いたものを許し、愛してくれるのである。日本には父なる宗教は育たず、母なる宗教が盛えるというのは私の考えだが、その根本原因は、戦場で多くの日本の兵士が「お母さん」とつぶやいた心情につながるのである。

遠藤周作著『ほんとうの私を求めて』より
 


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