仏教とキリスト教
《遠藤周作のエッセイより》

 
 私はむかし意味もない三年を送った(と思っていた)。病気で入院した三年は私の生活にとってマイナスであり、損失であり、ダメージだった。
 しかし歳月がたつにつれ、その生活のマイナスが私の人生にとってどんなにプラスであったかをしるに至った。私は手術によって七本の肋骨を失い、片肺を切りとられたが、私が獲たものは七本の肋骨や片肺よりも、もっと大きなものだった。何を獲たかについてはここでは書かないけれども、少なくともその三年はあとになって意味を持ち、無駄ではなかったのである。
 こうした考えはひょっとして私の信ずるキリスト教的であるというよりは仏教的であるのかもしれない。しかし仏教のふかい人間洞察にキリスト者といえども感動せずにはいられないことが多くある。
 仏教のいう善悪不二というのは言いかえるならば善も悪も背中あわせになっており、悪もまた善になりうるのだから「意味があり」「無駄ではない」ということになるだろう。
 そう、かつて私はふるいキリスト教者の観点から罪は意味がないと思っていた。いや、それは違う、罪もまた意味があり、決して我々の人生にとって無駄ではないのだ。

『生き上手 死に上手』より

 仏教の考え方とキリスト教の考え方と、相反しない部分もあると思います。仏教の本を見ていて、同じことを言っているじゃないこと思う時さえあります。もちろん神を絶対神一つとして見つめるか、それともたくさんの仏さんにするかの違いがあります。静かに死なれた釈迦の死と十字架刑という苦しみの中で死んだイエスの死とでは、死と再生についてのイメージも違います。
 仏教は苦を考えますがキリスト教は罪を考えます。そのような違いが幾つもありますけど、宗教的発想法において、日本人が仏教を利用して考えると、もっとキリスト教が理解できるんじゃないかと思うところは多いような気がします。だから、イエス・キリストを応化身とまず考えたらどうでしょう。仏教では、大日如来の理念を生かした別のものがあらわれるわけでしょう。
 それと同じように、神の理念を全く生かしたのがイエスだというふうに考えてから、イエスについての考えを深めるのは悪くないと思います。イエスは人間としての肉体を持っていたから、人間としての苦しみをすべて味わいつつ、その中で神の理念をあらわそうとしたと考えればいいのです。
 神の理念を人間の肉体をもってあらわしたのがイエスです。イエスが具体的存在で、キリストが抽象的理念です。もともとイエスというのはあの地方ではありふれた名前で、パレスチナにはイエス君はたくさんいます。もっとも、イエーシュというのがガリラヤ地方での発音だそうですが、日本でいうと、一夫とか稔みたいなよくある名前で、朱門とか淳之介などという特別な名ではありません。
 イエスは、実際にパレスチナに生まれて、三十三歳の生涯を送りました。死んでから弟子たちにキリストと言われるようになったのです。救う者という意味のキリストという称号を与えられたのです。イエス・キリストというのは、遠藤周作や田中太郎ではないのです。イエスは普通の名前、キリストは救い主の称号と思ってください。

『私にとって神とは』より


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