「仏教の往生、キリスト教の天国」

 
 作家遠藤周作氏の奥様、遠藤順子さんは遠藤氏の没後、「夫の宿題」をはたすべく三冊の本を出版されました。その中の一冊『再会』から印象深い一文を抜き書きして紹介します。

 ダライ・ラマは『ダライ・ラマ、イエスを語る』の中で、人間は自分が生まれ育った土地で生まれた宗教を信じるのが、一番幸福なことだといっています。
 宗教もその土地の風土や文化の中で生まれ、時代と共に進化していくものであって、今現在日本の仏教が、葬式仏教といわれ、形骸化しているといわれながらも、我々の体内で血肉化するところまでくるには、実に千五百年近い年月が経っています。
 私はキリスト教伝来当時の日本にも御仏の救いは存在していたと思います。平安朝末期以前の南都北嶺の仏教では、戒(おきてを守り)定(心を定め)慧(学問を究めて)をはじめ、悟りに達し救われるという考え方が主流だったのではないかと思っています。
 法然に至ってはじめて、日本の仏教はようやく民衆のレベルにまで到達し、末世の汚濁にまみれて暮らしている人々、すぐに誘惑に負けて罪を犯してしまう凡夫にまで救いが及んだと思うのです。
 民衆に、専念一心弥陀名号を唱えれば必ず救われることを説きながら、法然自らはそのような一般の大衆の罪業消滅のために、一日に一万遍をこす念仏を唱えつづけました。
 罪を犯しやすい弱い人間でも救われるというところまで達してこそ、本当の宗教だと私は思っています。
 私はたとえ善意からだとしても、伝来後の宣教師たちの布教のやり方は、間違っているし、心ない振る舞いであったと思います。すでに自国の宗教によって安心立命を得ていた民衆に対して、救霊という口実のもとに、「いや、お前たちの信じている神では救われない」と、心の中にまでずかずかと踏み込むような振る舞いは、東洋に古くから伝わる、礼節とか謙譲などの徳に反し、「仁」に適わぬ行為でありましょう。
 せっかく法然が、汚濁にまみれた末世を生きる凡夫でも救われるというところまで時計の針を進めたものを、殉教して天国へ行くか、踏み絵を踏んで地獄へ行くかという、無慈悲な選択を迫ることで、拷問の苦しみに耐えて殉教した者のみが救われるという、つまりエリートコースに進まなければ救われないというところまで、また時計の針を逆回ししてしまったのではないでしょうか。
 この間もザビエルをめぐる鼎談で私は、キリストの救いとはそのように狭いものではないはずと、疑問を呈しました。キリストの教えを伝えに来た人たちがある意味では、かえって非常にゆがんだ形でキリストを伝えてしまったことを残念に思います。
 ザビエルは、日本人が名誉を重んじ、信義に厚く、貧乏に恥じていないことを感嘆しながら、どうして一般庶民のそのような見事な身の処し方の背景に、打ちつづく戦乱のために疲弊していたとはいえ、優れた宗教が存在することを見抜けなかったのでしょうか。
 信者が「自分たちの両親や先祖は、神様の教えを知らずに死んでしまったから地獄におちていると思うが、何とかこれを救う方法はないものか」と尋ねたら、ザビエルはその質問に対して、「残念ながら救う方法はない」と答えたということです。
 ザビエルの論法に従えば、キリスト教の神を知らずにこの世を去った人は、皆地獄に落ちていることになるわけで、そうなると、聖徳太子も光明皇后も歴代の天皇も全部、地獄で呻吟していることになってしまいます。そんな目茶苦茶な論法が、いくら16世紀であっても、日本で受け入れられるはずはないでしょう。反感や憤激を買うことは自明の理でありましょう。

遠藤順子著『夫の宿題それから 再会』より  PHP研究所発行


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