物心がついたときは、中耳炎で耳鼻科に通っていた。祖父の自転車の前かごに乗っていたのが記憶にある。小学校では、割合優等生だったと思う。中学校に入って、柔道と学業を両立すべくかんばるが、結果は、公立高校不合格、私立へ入る。1回目の挫折を味わう。大学入試は、要領が悪いせいか、2年浪人してしまったが、何とか関西大学法学部へ入学できた。しかし、2浪してことで、コンプレックスに陥り、以後続く。就職活動は、いままでの挫折とは打って変わって、民間合格、大阪府警合格、K市役所に合格。母親の強い希望でK市役所に採用が決まった。振り返れば、大学入試までは険しい道のりであったが、就職で大輪が開いた感じだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人生山あり谷ありという言葉が、そのまま当てはまるのではないかと思うことがある。良いことがあって悪いことがあるのか、悪いことがあって良いことがあるのか。今が苦しければ、きっと楽になるときがくる。それまではじっと我慢をしなければいけない。 「ムリせず、急がず、はみ出さず、力まず、ひがまず、威張らない」酒井雄哉師の言葉が耳元で聞こえる。そうか何事にも「自然体」がいいよね。
年表
昭和54年 大阪府K市役所奉職(24歳)
         課税課資産税係
  昭和56年 人事課(27歳)
  昭和60年 産業課農林係(31歳)
  平成元年 大阪府へ研修生として出向(34歳) 地方課(市町村課)行政第二係、2年度末まで。
  平成3年 人事課人事係長(36歳)
  平成8年 人事課主幹兼人事係長(41歳)
  平成10年 教育委員会学事課長補佐(43歳)
  平成14年 K病院事務局総務課長補佐(47歳)
  平成16年 会計課長(49歳)
  平成18年 国保年金課長(51歳)
  平成21年 教育委員会総務課長(54歳) 
    
更新日時:
2010/02/20
病歴
幼年期 左耳の中耳炎、中学まで続く。
  小から中学生のころ、昼間、盛んにあくびがでてよく教師に叱られる。一度、病院で診察を受けるよういわれ、市民病院の内科を受診した。結果、体質的にかなり疲れやすいとのこと(多分、この頃から夜に寝ることが下手だったように思う)
  高校受験に際し、午後は柔道のクラブ活動、夜に勉強するも肩こりが酷くてよく母親に揉んでもらった。
  就職後、蕁麻疹が出るようになり、薬の服用を始める。
  26歳にして、高血圧の診断を受け、降下剤を服用
  28歳当時、急激な視力の低下、半年で2.0から0.6に。(現在0.01)
  30歳位から、あんま・マッサージ・指圧・鍼灸に通いだす。
  32歳にから酷い花粉症がでる。
  37歳のとき、左耳の鼓膜再生術を受ける。
  45歳に、喘息発作が始まる。また、この時期肩こり賀一段と激しくなり、整形外科を受診、初めて頚椎脊柱管狭窄症の診断を受ける。そして、睡眠がうまく取れなくなり、心身症となる。精神科に通院、うつのの薬を処方される。人間ドックの心電図で、過去に心筋梗塞の後があることを指摘される。このころから、糖尿病の薬を服用。
  50歳のときに、思い切って精神病院を受診。(現在に至る、ただし、現在は安定剤数錠を処方)
  53歳にして、倒れる。整形外科・耳鼻咽喉科・精神病院を掛持ち通院。最後に脳神経外科にたどり着く。頚椎の手術の後、蕁麻疹以外はほぼ正常な状態まで回復。体調が良くなり過ぎて、10キロマラソンに2回参加。結果、左耳がボロボロになる。鼓室形成術を受けるも、耳管の調整機能に問題があり、術後4ヶ月経っても、左はいまだに、プールに潜った状態になっており、日常生活には、さほど支障はないものの、第一線で激務をこなさなければならないことから、特にコニュニケーションが必要な場面では、はっきりと支障をきたしている。
  
  
  
 
更新日時:
2009/10/14

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Last updated: 2010/7/19