市民自立への文化施策の展開
〜協会は「岸和田方式」を唯一体現している
岸和田市では、文化会館(マドカホール・1984年オープン)の建設の中で、「文化ホールの運営を考える会」が市民の自主的な組織として作られた。
それが発展し、行政と市民が協力して「文化会館等運営委員会」がつくられ、文化会館の運営に直接市民の意見が反映されるようになった。
市民が文化施設3館(文化会館・市民会館・自泉会館)の運営に意見を言う機関ができたのである。(岸和田市立文化会館条例第4条で設置をさだめる)
1989年4月、この等運営委員会で、マドカホールに「いわゆる友の会」をつくるには、どんな形で作ればいいのかが研究され、より事業展開ができる文化事業協会=友の会が望ましい市民の新しい文化活動の形であるとした。
それが二年後の1991年4月の岸和田市市民文化事業協会の設立であり、(現在の文化事業協会の前身)その事務局を自泉会館に置いた。
つまり、協会は「マドカホール友の会」としての性格を持ちつつ、自泉会館の管理運営をし、独自の企画事業に取り組み、また順次、文化会館(マドカホール)との共催事業が増え、2000年度にはホールの企画予算額の半分が共催事業となり、近い将来には全面的に市民の手にゆだねられようとしていった。
行政と民間による協同というこの形態が全国で注目され、「岸和田方式」とまで言われた。
そのフレーズのもとは、「東の水戸、西の岸和田」と喧伝される東の水戸との対比にある。
水戸方式は、同じように行政の文化事業が民間の手にゆだねられたが、芸術豪華主義とよんでもいいほど一流の芸術関係者がプロデュースする方式である(初代館長に音楽評論家の吉田秀和氏が就任、年間総予算10億円<当時>)。
それに対して、岸和田市の方式は、住民にプロデュースをゆだねたのである。その根拠は、「文化をつくるのは市民自身である。」という強い理念に基づいている。
つまり、「市民がホールを運営する」形式こそが「岸和田方式」であり、いま、わたしたち岸和田文化事業協会が市に委託され管理運営する自泉会館と企画事業だけが「岸和田方式」を体現しているのだ。(市民の声を聞くだけが岸和田方式だと勘違いしている人が大勢いる)
一方、大阪府によるウォーターフロント計画の一環から岸和田旧港再開発の目玉として、文化施設の建設が立ち上がり、国際文化施設建設がもとめられた。
それが浪切ホールである。
その管理運営をするために、岸和田市文化財団が設立され、公共施設(浪切ホール・マドカホール)での企画事業は財団により実施されることになり、行政が直接ホール事業を行わないという方向が決定されました。
もともとホールの友の会としての性格をもあわせもった協会であるのだから、財団による別の「浪切友の会」ができることは市民サイドには混乱の元であるとして、市民文化事業協会を解散させ、新たに再結成されたのがこの協会である。
同時に新しい協会は、それまでの友の会活動への偏重や共催事業と行政への依存の傾向という面もあり、より市民サイドの企画力や財政力などの力量を育てることが必要と考えられた。
つまり、新しい協会は、より自立的な組織として、市民の側からの「岸和田方式」再構築を目指すことにある。
さらに名称から「市」と「市民」を抜いたのは、岸和田を拠点としつつも広く全国に発信するという意味を持っている。
この間、協会には多くの見学者が訪れ、文化行政が市民の手にゆだねられたり、市民の積極的な参加を促したりする文化協同の流れは全国に広がり、さまざまな形態で多様に、そして活発に繰り広げられている。
このように岸和田市においては、一歩後退の観が否めないが、近い将来、再び岸和田市においても、よりいっそう行政の文化化を図り、全国に遅れをとらない文化行政がおこなわれなることになるだろう、文化事業協会があるかぎり。
<参考資料>
<中村順編『文化行政・はじまり・いま・みらい』水曜社 2001年
「地域における芸術環境づくりの状況」財団法人地域創造 1996年
「住民参加による文化振興とまちづくり」財団法人自治研修協会 1996年
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