額町のだんじりは平成10年新調され、平成11年完全完成しました。

 この新しいだんじりは、先代だんじりよりかなり大きくなりました。
私は町独特の特徴を地車に出している町をうらやましく思っていましたが、
このだんじりには額町という町の色が濃く出ただんじりに仕上がっていて非常にうれしく思っています。
特徴としては他の町に例を見ない 加藤清正統一彫り

源平、太平記、信長公記、太閤記等の統一彫りはありますが、
一人の人物でまとめてあるのは少ないと思います。
(なぜ清正公なのかはわかりませんが・・・)
正面枡合の「白河上皇 積川神社遙拝」や
番号持ちの「加藤清正 額町扁額を持つ」は、
以下の由来に基づいて彫られています。

額町の由来

 熊野街道を大阪方面から南に進み八木村に入ります。そして今の額町のあたりに積川神社の鳥居がありました。この鳥居は積川神社の氏子が遠く離れた神社へ朝夕参拝するためにもうけられたものだということです。(積川神社の氏地は山直上村・山直下村、八木村、北掃守(きたかもり)村の四ヶ村<牛滝川に沿って磯之上まで>)熊野御幸に向かう白河上皇の一行がその鳥居で足を止め、積川神社を遙拝された後、自ら筆をとり「正一位積川大明神」の扁額を鳥居に掲げられた。このことから額という地名になったという。詳しくは下をご覧ください。

積川神社鳥居(額町)

−以下の文は鳥居横の看板より。−

鳥居の御由緒略記
この鳥居は、この地より東約5kmに位置する積川神社の鳥居で、当神社は第十代崇神天皇の御代に現積川町に創立され、延喜式内社で和泉五社に列し歴代天皇の勅願社として又武将の崇敬も厚く、天正の頃迄社領六百石を有する格式の高い神社でありました。
寛治四年、白河上皇が熊野へ御幸の途、熊の街道のこの地から神社を遙拝され芝草を積んで草舞台をしつらえ、舞楽を奏されたとき、鳥居に掲げられた扁額の筆跡が拙いのをご覧になり、親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八字を大書され、これに代えられたと伝えられています。その額は神社の社宝として積川神社に今も保存されており、現在の「額」は鳥居新調に伴いその扁額を模写したものであります。

額の地名の由来
積川神社の氏地は、旧山直上村・山直下村・八木村・北掃守村の四ヶ村(牛滝川に沿って磯之上迄)でした。
そこで遠方の氏子の人達の為に、中間地に当るこの地から朝夕積川神社を遙拝し農作物の豊穣と家内安全を祈願しました。
この地は、熊野街道に面している為熊野参詣をする皇族・公家の方々がこの地から勅願社である積川神社を遙拝され旅路の安全を祈願されました。寛治四年、白河上皇が熊野御幸の途この鳥居に扁額を掲げられ、この「額」と人々がこの地で「額づく(拝む)」という二つの事からこの地を額と名付けられ、以来今日迄額と言う地名で呼ばれています。

お神輿の渡御(おわたり)
積川神社の御旅所は昔は浜辺に在りましたが、岸和田城主が入城されてからこの地の遙拝所に移されました。
毎年神社の祭典が終わると神霊を、お乗せした御輿が御旅所へ「おわたり」するのが習わしで、このとき遠方の氏子の人達がこの地に集まって、神霊にお参りします。このように神霊を安置する場所を御旅所と言います。


番号持:清正公 額町鳥居(積川神社)の扁額を持つ

 その他の特色としては台木にも彫り物(竹に虎)後旗の鳳凰
水引幕(正面の赤い幕)の「加藤清正と虎」の刺繍等色々あります。
注目してみて下さい。

 

ちょっと自分の意見ばっかり書いてしまいましたが、自分の町のだんじりを自慢する気持ちはだんじり祭りをする人なら誰でも持っているものとして勘弁してください。m(__)m

 

額町だんじり

大工      天野 行雄

彫師      木下 賢治

        松田 正彦

高さ(土台〜鬼板)   3.55m

高さ(コマ込み)    3.85m

土台の長さ       4.20m

土台の内幅       1.23m

大屋根横幅       2.50m

大屋根奥行き      2.90m

小屋根横幅       2.40m

小屋根奥行き      1.80m

   

 

彫り物

リンクをクリックすると写真が見れます。

大屋根枡合

正面  白河上皇 積川神社遙拝

右  素盞鳴尊命 大蛇退治

左  神武天皇 東征

小屋根枡合

正面  清正公 元服

右  清正公 加藤家の由来を聞く

左  幼年期 (福島)正則との御前試合

土呂幕

正面  加藤虎之助清正 山路将監正国を討ち取り

 右  賤ヶ岳 片桐裕助且元 安彦弥五右衛門他三人刺し

 左  賤ヶ岳 加藤孫一郎 浅井吉兵衛を討つ

松良

 右  加藤虎之助清正 山路将監正国を討ち取り

左  加藤清正公 虎退治

見送り

九州征伐(嵌石城の合戦)

縁葛

正面  秀吉朝鮮出兵

 右  水軍との戦い

 左  朝鮮兵との戦い

小連子

正面  秀頼と二条城で家康と対面

 右  家康宅へ光成を追う

 左  清正 行長と退陣する

大連子

正面  賤ヶ岳 片桐裕助且元 安彦弥五右衛門他三人刺し

 右  賤ヶ岳 七本槍功名一番手柄

左  賤ヶ岳 孫六 浅井吉兵衛を討つ

番号持

清正公 額町鳥居(積川神社)の扁額を持つ

 

額町だんじりの過去

額町のだんじりは現だんじりで3代目ということです。

 

先々代のだんじりについてはあまり詳しくわからないのですが、天保13年新調(旧紙屋町だんじりは天保12年新調)で明治時代に堺町から購入したそうです。堺町も明治20年に新調したそうなのでおそらくそのころ購入したのではないでしょうか?そのだんじりは昭和40年10月6日行基参りの帰路、町内にて大屋根が破損し、処分されたといわれています。

(ただし堺町の地車購入は隣の額原町という説有り。その地車は貝塚市脇浜へ行きそこから額原町、そして廃絶されたということです。額原町が先代地車を購入したのも昭和40年、その辺りから話がこじれているのかも?何かご存じの方はご一報いただきたいです。)

→この謎については八木地区だんじり考察でも論じています。

 

先代のだんじりについてはここをクリックして下さい

 

地車後姿

額町だんじり後姿

~Reference~
参考資料

「額町地車新調記念誌」より

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