このページはだんじり祭りとは何たるかを独断と偏見いっぱいで書き上げたページです。
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だんじりとは祭礼で奉納される山車(だし)のことで、特に西日本で呼ばれることが多いです。
また大阪においては、だんじりは「地車」と書かれます。
だんじりにも色々ありますがここでは岸和田型のだんじりについて説明します。
皆さんがだんじりと聞くとまず思い出すのは「岸和田だんじり祭り」ではないでしょうか
もしくは少し古くなりましたが元西武・巨人のスター選手 清原和博選手が
「だんじりファイター」と呼ばれていることを聞いたことがあるのではないでしょうか?
よくニュースなどで紹介されますが、そのTVや新聞に写っている山車が「だんじり」です。
無病息災や五穀豊穣を祈願し、それを曳き町を練り回したりお囃子を奉納するお祭りがだんじり祭です。
大阪の中でも泉州タイプ、摂津タイプ、河内タイプと旧国によってだんじりのやりかたが変わるのですが、
このページでは特に断りのないかぎり泉州を中心としただんじりについて記載します。
それでは次に岸和田市で行われる「岸和田だんじり祭」について説明していきましょう。
まず岸和田とは何か?いわずとしれた地名です。
岸和田市は大阪の南部、有名な堺よりも20キロほど南に行ったところ。
人口は約20万人、岸和田城があり城下町の風情の(少し)残る街です。
岸和田だんじり祭りの起源は、約300年前の岸和田城主、岡部長泰(ながやす)公が、
城内にある稲荷神社に五穀豊穣を祈願し、1年に1度民の参拝を許した稲荷祭に始まります。
(稲荷祭の始まりは1703年説や1700年説などあります。 )
民は城主に感謝し長持(ながもち:昔のもの入れみたいなもの)に車を付け、
お囃子をしながらその上で舞ったということです。
それが時を経て大型化していき今のだんじり祭になったということです。
現在のだんじりのような形になったのは、
天明年間に北町の油屋治兵衛が泉大津から中古だんじりを買ったのが起源と言われています。
そのだんじりはそれまで岸和田で曳かれていた山車より大きく、
お城の門をくぐれないため急遽屋根を下げるからくりが付けられました。
その後、屋根の上げ下げ機構が付いただんじりが岸和田で作られるようになり独自の進化を遂げました。
それが下だんじりもしくは岸和田型だんじりと言われ、
大阪市内などで曳かれる摂津型など地車の原型となったものと違う型のものとなりました。
(だんじり会館にある旧五軒家町のだんじりや泉佐野市長滝中の番等屋根の上げ下げ機構が残っているだんじりが現存します。)
さて、よく岸和田だんじり祭としてニュースなどで取り上げられるのは上に書いてある城下町のお祭りです。
ただし岸和田には上記の城下町のお祭り以外にも色々な地区に分かれてだんじり祭が行われています。
9月の第3土日曜に行われるのが上記の城下町である岸和田地区(中央地区+浜地区+天神地区)と同じく海沿いにある春木地区。
10月の第2土日曜に行われるのが山手地区のだんじり祭です。
山手地区もさらに細かく分けられ八木・南掃守(みなみかもり)・東岸和田(旭・太田・修才)・山直(やまだい)北・山直南・山滝の地区があります。
それら各地区をあわせて岸和田市内には82台のだんじりが曳行されています。
岸和田の地車一覧は岸和田だんじり大全を参照してください。
だんじりは何故動くか?だんじりの動力はいわずとしれた「人」です。
だんじりについた綱(つな)を曳き前に進む。
しかし前に進むだけではどこにも行けません。
つまりいかにして曲がるか?別にだんじりにはハンドルがついているということはありません。
だんじりの後ろには棒がついており、これを後梃子といいます。
後梃子には緞子(ドンス)と言う綱がついており、
このドンスを曲げたい方向と逆方向に引っ張ることにより、梃子の原理が働き方向を変えるというわけです。
走りながら曲がる「やりまわし」については後述することにしましょう。
だんじり祭りは地区によって時間の割り振りが違います。
ここでは八木地区と岸和田地区について参照してみましょう。
まず岸和田地区は9月の第3土・日に行われます。
祝日が移動する前(いわゆるハッピーマンデー法施行前)は9/14・15に行われていました。
1日目 6:00〜 7:30 曳き出し 9:30〜12:00 朝曳行 13:00〜17:00 昼曳行 パレード(岸和田駅前) 19:00〜22:00 灯入れ曳行 |
2日目 9:00〜12:30 宮入り (岸城神社・岸和田天満宮) 13:00〜17:00 昼曳行 19:00〜22:00 灯入れ曳行 |
朝・昼は走ってやりまわしを行う動の祭りです。
夜の灯入れ曳行では岸和田では歩くのみの静の祭になります。
ただし堺市などでは夜も提灯を着けて走りやりまわすところもあります。
次に八木地区は10月第2土・日に行われます。
昔は各地区で10月初旬にばらばらに行われてきました。(たとえば10/3・4・5)
その後10月9・10日に統一されたのですが10/10が確定した祝日ではなくなったので移動してしまいました。
1日目 6:00〜 曳き出し 9:00頃〜12:00 宮入り(夜疑神社) 13:00〜17:00 昼曳行 パレード(久米田駅前) 19:00〜22:00 灯入れ曳行 |
2日目 9:00〜12:00 行基参り(久米田寺) 13:00〜17:00 昼曳行 19:00〜22:00 灯入れ曳行 |
八木地区の特徴としては1日目に神社、2日目にお寺に参るということです。
お寺に参るというのはあまり類を見ません。
なぜこのように変わっているか?
それにはまず久米田寺の説明をしなければなりません。
久米田寺とは久米田池のほとりに建つお寺です。
久米田池は奈良東大寺の大仏建立で有名な僧・行基が掘ったため池です。
その大きさは1周2.7kmあります。(昔はもっと大きかったという話を聞きます。)
泉州地域は雨が少なく、大きな川もないため古くから干ばつには苦しめられてきました。
この池のおかげで八木地区・山直地区そして春木地区にいたるまでその恩恵にあずかってきました。
そして久米田池の守護のために久米田寺が建てられました。
行基参りとは名の通り行基に感謝するために久米田寺にだんじりが参ると言うことです。
10月祭礼2日目朝、八木地区+田治米・今木の13台のだんじりが久米田寺開山堂(行基堂)前に集まります。
行基参りだけ山直南地区の田治米・今木の両町が参加するのも古くから久米田池の恩恵を授かってきたからです。
だんじりはたくさんの人の働きで動いています。
少なくても100人以上多い町だと1000人を超える人たちによって走っています。
その人達がさまざまな役割を分担されています。いかに大まかな分担を記します。
纏、旗持 | 曳き綱より先で纏や町の旗を持つ人。 |
交渉役 | 同じく曳き綱より前を走る。交差点などで自町がどちらへ行くかを祭礼役員や警察に伝える。 |
綱先 | 曳き綱の先頭で綱を引っ張る。綱先が動かないと全体が動けないという重要な役目。
主に青年団数人や中学生が受け持つ。 |
綱中 | 主に小・中学生が受け持つ。 |
綱元 | 高校生〜25歳くらいまでの青年団が受け持つ。だんじりの主動力。
青年団の多さがだんじりのスピードに直結してるといっても過言ではない。 |
前梃子 | だんじりの舵を取り曲がるときの調節を行う。
前梃子一つでやりまわしの明暗が分かれると言っても過言ではない。 |
大工方 | 基本的に大屋根1人、小屋根左右1人づつ、交代要員1人〜数人。
だんじりが曲がるときなどの指示を後梃子に伝える。 |
後梃子 | だんじりの後ろについた長い棒。これを上図(曲がる仕組み参照) のように動かす人です。
主に青年団卒業〜30代前半くらいの人達が受け持ちます。 |
ブレーキ係 | だんじりの前に乗りだんじりについているブレーキを操作する人です。責任が重い役です。
その左右には町会長、曳行責任者が乗ります。 |
だんじり正面図 |
だんじり側面図 |
主要な部分だけ描いてみました。
大屋根(おおやね) | 大工方が踊り、指示を出す所。 |
小屋根 (こやね) | 大工方が後梃子に指示を出す所。 曲がる方向の大工方がうちわをはたいて合図する。 |
鳴物(なりもの) | 鳴物には中央に大太鼓(おおだいこ)左右に小太鼓(こだいこ)、鐘(かね)、笛がいる。 |
鬼板(おにいた) | 各町の氏神の紋が彫られている。 獅子噛(しがみ)が彫られている物もある。(旧市紙屋町、筋海町など) |
懸魚(げぎょ) | 多いのは波に千鳥、二見浦など。 バネ仕掛けで鳥が動く物も多い。 |
番号持(ばんごうもち) | 各町名が彫ってある彫り物。宮入順を彫ってある(書いた紙を貼る)町もある。
また番号持がないだんじりもある。 |
松良(まつら)
松良受け(まつらうけ) |
図の場所にある前方に張り出した彫り物。 |
縁葛(えんかつら)
大連子(おおれんじ) 小連子(これんじ) 土呂幕(どろまく) |
だんじりの正面、左、右の胴部にある彫物。 特に一番下の土呂幕は一番大きく、彫りも深くだんじりを代表する彫物のひとつ。 |
枡合(ますあい) | 屋根の下にある彫り物です。 |
見送り(みおくり) | 小屋根の下が空間になっていて、そこに彫り物がおいてあります。
2次元ではなく3次元の彫物が楽しめます。 |
小屋根枡合(こやねますあい) | 大屋根枡合と同じですが、ここが見送りと同じように空間になっているものもあります。 これを二重見送り(にじゅうみおくり)といいます。 |
後縁葛(うしろえんかつら)
後大連子(うしろおおれんじ) |
これも縁葛、大連子と同じような感じですが、 ここも見送りのような空間になっているものもあります。 これは三重見送りといいますが、私の知る限り三重見送りは堺市家原寺町だんじりだけです。 |
コマ | 松の木から作られるだんじりの車輪。1セットウン万円。 最近は松が枯渇してきましたが、合板のものも使われるようになってきました。 だいたい1日走ったら取り替えます。 |
どのような形で曲がるのか、
下手な絵を描いてみましたので、それに沿って説明します。
@
まず地車を停止位置に据えます。
据える位置は事前に青年団・後梃子・大工方・前梃子で
協議して決めます。
だんじりを据えたら綱の準備をします。
道のどの位置に綱を通すかも協議して決めます。
その位置に綱を通したら
曲がり角より前側を前に向かって曳きます。
そのままだと綱が曲がっている部分(R[アール]と呼んでいます。)
が角の内側に引っ張られます。
それに負けないようにRの部分では角の外側に力を入れます。
Rが負けて内側に引っ張られるとだんじりが曲がる前に
内側にぶつかってしまいます。
A
スタート前、地車はブレーキを踏まれた状態でいます。
全ての場所の準備が整ったら
青年団の団長がスタートの合図をします。
合図が出たら角より地車側の綱を進行方向に引っ張り、
綱を張った状態でブレーキを解除すると地車がスタートします。
後梃子は曲がる外側のドンスを斜め後ろに、
内側を斜め前に向かって持ちます。
(まだ力を入れていません。)
B
地車が前に進みだすとRの部分の人も進んでいきますが、
Rが内側に来ないよううまく回っていきます。
C
地車がRの位置まで進んでくると綱が地車の土台に当たり、
地車に曲がる方向へ力が加わり、曲がる方向に進もうとします。
その時に後梃子は外側後方へ力を入れます。
また内側の前梃子をコマ(車輪のこと)に入れます。
そうすると内側のコマにブレーキがかかり、
外側のコマは進もうとするので曲がろうとする力がかかります。
これらの力が合わさって地車が曲がっていきます。
D
曲がりきったら内側の後梃子は矢印方向に力を入れ、
地車が曲がっていくのを止めます。
その後後梃子は地車の向きを微調整をします。
曲がりきったら綱を前に思いっきり曳くだけです。
綱・前梃子・後梃子・後梃子に指示を出す大工方の
力のバランスやタイミングが少しでも狂うと
地車が外側や内側に向いてしまったり、転倒したりしてしまいます。
参加している全ての人間の息が合わなければ
きれいなやりまわしはできません。
大屋根の形には大きく分けて2つの形があります。
切妻(きりづま)と入母屋(いりもや)の2つです。
切妻
|
入母屋 |
矢印の指しているところが違うのがわかると思います。
あまり詳しいことはわかりませんが古い建築で使われた技法でしょう。
垂木(たるき:右側の写真の緑で囲っているような物、ちょっと見にくいですが。)
が正面まで出ているのが入母屋、出てないのが切妻です。
ちなみに岸城神社は切妻で造られているので、宮3町(宮本町、上町、五軒屋町)のだんじりも切妻で作られます。
また2重破風(にじゅうはぶ)という物もあります。
矢印部分が違うのが良くおわかりでしょう。
2重波風のだんじりはほとんどが入母屋です。
2重波風はあまり数が多くなく旧市では筋海町、八木地区では荒木町などです。
2重波風は手の込んだつくりなのでそういう地車は良い地車であると言われます。(あくまで一般的に)
こういった作りは小屋根によく見受けられます。
ほとんどのだんじりの小屋根がこうなっていますが、
普通の作りになっているだんじりもあるそうです。(南町先代など)
額町とは岸和田市小松里町内にある地名(町名?)です。
額町には熊野街道(小栗街道)が通っており、街道沿いには積川神社の鳥居があり
熊野詣の旅人がこの鳥居から積川神社を遥拝した。
詳しくは当HP「額町だんじり考察」のほうを参照してください。
また額町内には三好義賢(実休)の首塚があります。
当時室町幕府13代将軍足利義輝の時代、
幕府の中心となったのは阿波を本拠とし幕府管領細川氏から実験を奪った三好長慶、
しかし近江の六角氏などと幕府の覇権を争っていた。
六角氏に協力したのが長慶に敗れ紀伊に落ちのびていた畠山高政。
そして1561年(永禄4年)から1562年にかけて畠山高政に対抗するため
三好長慶の弟義賢(実休)が阿波・淡路の兵を率いて岸和田に集結した。
両者は久米田に陣取り何ヶ月も対陣した。
畠山方は現在の額から額原に陣を敷き、
三好方は久米田寺から諸兄塚(現在の久米田公園にある古墳)辺りに陣を敷いた。
(久米田古墳群には貝吹山古墳があり、ここでホラ貝を吹いたためこの名が付いたという説がある。)
そして1562年3月5日三好義賢(実休)は畠山軍を攻めている最中、
手薄になった本陣を畠山軍に協力していた根来衆の鉄砲隊に発砲され(流れ矢という説もある)現在の額町内で絶命する。
射殺だとすると名のある武将で鉄砲により死んだ始めてと言うことになるらしい。
そして大将の戦死により畠山方が勝利を収め、三好方は堺方面へ撤退したことにより和泉は畠山方の支配下に置かれる。
これが俗に言う久米田合戦です。
三好義賢(実休)の墓は額町の積川神社の鳥居の道を上がったところにあります。
その墓の正面には義賢を狙撃した根来左京の首塚があります。
積川神社鳥居(額町)
地車(だんじり)
けっして男尻(だんじり)ではない。間違うな!
間違われた時ほんまにショックやった・・・
岸和田型(下だんじり)の他に上だんじり(摂津型、堺型等)、折衷型(上だんじりと下だんじりを合わせたような形)などがある。
和泉市以南(和泉、岸和田、貝塚、熊取、泉佐野、田尻)では岸和田型、
高石市、泉大津市、堺市は上だんじり・下だんじりが混在しているが最近は下だんじりが増えつつある。
堺より北は下だんじりは少ない。
清原和博選手(きよはらせんしゅ)
元西部ライオンズ・読売ジャイアンツ・オリックスバッファローズ、清原和博選手。実は岸和田市額町出身。
筆者の小・中学校の先輩に当たる。ただそれだけ。
2001年度にはたまたま見つけた清原選手を額町の後梃子の上に乗せて走りました。(はっぴ着用、週刊誌に載ったらしい)
普通の人とは違う体格とオーラが嫌でも目立ちます。
たぶんだんじり大好き。自分でも「だんじりファイター」って言ってたし。
ちなみに清原氏の岸和田市市民栄誉賞受賞のニュースのとき、
yahooニュースの記事からはなぜかこのページがリンクされていました。
新聞(しんぶん)
清原選手の婚約のニュースの時、某スポーツ新聞紙にはお隣の小松里町のだんじりの写真が載っていたらしいです。
いや…確かに住所は小松里町なんだけどさ…(額町は字名)
岸和田城(きしわだじょう)
岸和田藩五万三千石の居城。
岸和田に最初に築城したのは楠木正成の配下で甥(正成の弟正季の子)の和田高家。
(現在の城とは場所が違い、現岸和田城から約500m東の野田町内に古城跡がある)
ちなみに岸という地名に和田氏が築城し城主となったので岸和田という地名が出来たという説がある。
交通の要所であったため戦国時代には三好長慶の弟、十河一存が城主となり紀州勢との戦いがあったり、
豊臣秀吉の支配下になった後、紀州雑賀勢に攻められるなどの戦乱を経て、小出秀政が城主として入る。
小出時代に天主の建設など城の強化が行われ現在の縄張りが確定する。
小出、松平と城主が変わり、摂津高槻より岡部宣勝が入り、以後岡部氏13代の居城となる。
もともと五層の天守があったと伝わっており、天主台の大きさは岡山城(岡山藩31万5千石)と同等、
5万3千石の小藩には分不相応とも言える大きな城だったが、文政10年落雷で焼失した。
その後3層の大天主と2層の小天守の建設が計画されたものの財政難などの事情から建設されなかった。
このように大きな城であったのは紀州藩への抑えという意味があったと思われる。
現在の天守閣は昭和29年に再建された模造天主。
特徴としては堀と石垣の間に犬走りといわれる細い道のようなものがある。
城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかは正しくはわかっていない。
脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力。
南側から見た岸和田城 |
3層の大天主と2層の小天守 |
岡部(おかべ)氏
岡部氏は織田信長に桶狭間(田楽狭間)で殺された今川義元に臣従していた岡部元信。
戦前(中?)に岸和田城内の三の丸神社?から金の兜が見つかった・
これは今川義元の兜であるといわれている。
これは今川義元が田楽狭間で織田信長に討ち取られた後、意気消沈して引き上げていく今川方の中で、
岡部元信が唯一織田勢に戦いを挑み、ついに主君義元の首級を取り戻した。そのときの兜であるらしい。
一族の岡部正綱は武田信玄・徳川家康に付き江戸時代には譜代大名として重く扱われる。 (JTさんご指摘ありがとうございます。)
ちなみに岡部元信と正綱の関係は親子説や兄弟説などあるが詳しくはわかっていない。
岸和田に入城したのは正綱の孫 岡部宣勝公。
この人はでかなりの切れ者であり、
また徳川家康の義妹の子で徳川家と深いつながりがあった。
その宣勝は不穏な動きを見せる紀州徳川家頼宣の抑えとして摂津高槻藩から移封される。
将軍と同じ徳川家の見張りに譜代とは言え他家の者を使うということだけでも岡部宣勝の信頼を見ることができます。
さらに宣勝が頼宣に江戸城で出会ったとき頼宣は「紀州の目付けとして置かれたと聞くがどういう策をもって紀伊を抑えるつもりか」と皮肉を言ったとき、
宣勝は「小藩の私が大藩のあなたを見張るとはとんでもない、せいぜい足の裏に付いたご飯粒くらいのものです」と皮肉を返したと言われている。
55万5千石の紀州藩に対し6万石(移封当時)の岸和田藩、
まともに戦ってはかなわないものの紀州にとっては気持ちの悪い存在になるぞという脅しをかけたのではないでしょうか。
行基(ぎょうき:668−749)
全国各地で井戸や池を掘りながら歩いたえら〜い僧。
晩年聖武天皇に召還され東大寺の大仏建立に携わる。
余談だが筆者の家にも井戸があり行基が掘ったらしい。
(作者の紹介ページにも写真及び関連記載があります。)
祖母に聞いた話では家の周辺は井戸を掘ってもきれいな水は出ないのだがその井戸だけは澄んだ水が出るそうな。
う〜む神秘的な話ではあるが・・・
今でも豊富な水量を誇っている。
祖母が子供の時はみんなその水を飲んでたようだ。
ただし掃除をしていない現在は井戸内が汚いので…庭の水やりなんかに使用されてます…
ちなみに昔はこの地に天神様(菅原神社)があったので「菅の井」というそうだ。
その天神様は夜疑神社に合祀されたということです。
久米田合戦(くめだがっせん)
余談だが個人的に新しいだんじりの彫り物に久米田合戦を入れてほしかった。
でも積川神社の鳥居が入っているからかなり満足。だいたい久米田合戦の資料そんなにあるのか?