おっしゃんしゃん
おっしゃんしゃんのしゃんころべ(入庫行事の勝ち抜き相撲のこと)
岡部 長泰(だんじり祭りを始めた殿様)慶安3年(一六五〇)生、貞享3年(一六八六)襲
封、36才。貞保9年(一七二四)死去、74才。寛永十七年9月(一六四〇)岡部宜勝、摂州高槻から、和泉岸和田へ、移封となる。 かねてから年貢減石のことを協議中の日根郡、南群、108ヶ村の農民らは城主交代時にこの事を決行することにした。この人たちのそう代表者、沼村の川崎久左衛門が欄干橋でねんぐ減石の為の直訴をしたのである。当時としては直訴をすると、勿論死罪であり、その累は一族へも及ぶという掟であった。108ケ村の人々は一族へまでの刑罰はまことに酷であり、大変に気の毒である・・・・・・・・・ その助命嘆願運動を起こした。そしてこれが成功したのだ。この運動には、城主宜勝と交誼の深かった立派な坊主(聖護山円教寺故、覚樹院五世日宜上人)が非常に努力したのだと。減石は七千石でありこのため犠牲となった。お庄屋さん(川久)への謝恩、恩謝を心から供養をして、ひそかに喜びあったのだ。あれやこれやで人の噂も七十五日で、この件も落着しそうなときに城の方から村方へ布告が出た。この内容は岡部宜勝という殿様は大変情深くて、下情によく通じた名君であるゆえこの恩を謝してよろこんで、その業務に精励せよ、との意味あいのことだった。減石に関連のことに「お下げ米」とは、年貢の払い戻しのようなもので(奨励金)その年度によって異なるが、千石〜六千石といろいろあった。これは、明治藩まで続行された。減石には大きな犠牲もあったが、それこそ転手古舞(転手古舞〜よろこんでこおどりをする)御赦、赦、感謝、御庄屋、謝恩恩謝の念でいっぱいであったに違いない。されば供養の一端のもと五穀豊穣と寿ぐ、だんぢり祭りの終日にお庄屋さんへの恩返しへの念を謝し喜偲ぶとともに、殿様へも御赦、謝恩したのだ。前者、後者の言葉を上手に混同させて、語呂の良いび「オッシャンシャンのシャンコロべ」という供養言葉にしたという。時代、作者不祥。「オッシャンシャンのシャンコロべ」のことは  水間、岡田浦、信達の古老達はまったく記憶がなく、口伝もないという。 荒木、下池田、小松里〜淀藩。中井、池尻、大町の2/1〜代官所預かり。箕土路、大路、大町の2/1〜守護職。三田、摩湯、包近〜代官所。大沢〜1ツ橋、三上藩。以上の地区は、岡部藩とまったく無関係のことが判明した。だんぢり入庫時に「オッシャンシャンのシャンコロべ」とこれを行うのは、わが沼町、上町、神須屋町の三町だけである。とりわけ沼町は圧巻である。上町、神須屋町の2町は、「オッシャンシャンのシャンコロべ」と唱和して手拍子だけで終わる。これに反して沼町では笛、鉦、太鼓の鳴り物を入れて、その上円陣を作ってその中の若い衆二人づつが技を競い合うは両方共負けるなと大声で応援をする。正に豪壮。その昔は幾人もの若衆のな。一般かから勝ち残ったものは、その年度のある意味での代表者になったよう(力、器量、統卒〜代表)。因に入庫時の行事として北町の太鼓と掛け声のシマイ太鼓「ヨイヨイヨイ、ヨイトマカセ」とこれを三唱する。平均的に泉州伊勢音頭が多い。特異なものとして春木町の楠寿玉破りがある。南町は六〇年ほど前は、「オッシャンシャン」があったが自然消滅したと。(中市太郎)。いずれにしても、我が沼町の入庫行事の「オッシャンシャンのシャンコロべ」は、日本一のだんぢり入庫行事の一大絵巻きである。永劫の存続を希ふ一人である。ある人は「木造り」の手締の転化したものだともいうが・・・・・・・・
この文は、だんぢり雑考会、だんぢりの生き字引といわれる沼町の宮本福太郎氏によるものです。
昭和56年9月10日の沼町新聞より抜粋。